CASTLE / HISTORIC SITE
弘前城
青森県弘前市の弘前城は、津軽為信が築城を計画し、二代藩主・津軽信枚の慶長16年(1611年)に完成した弘前藩の居城です。寛永4年(1627年)に最初の五層天守を失った後、文化7年(1810年)に現在の三重天守が建てられました。天守に加えて築城期の3棟の櫓と5棟の城門が現存し、堀・石垣・郭とともに江戸時代の城郭構成を現在まで伝えています。
INFORMATION
基本情報
- 所在地
- 青森県弘前市
- 種別
- 城
- 推定築城年代
- 慶長15年(1610年)に本格着工、慶長16年(1611年)完成。現在の天守は文化7年(1810年)造営。
- 築城者
- 津軽為信が築城を計画し、二代藩主・津軽信枚が完成させました。現在の天守は九代藩主・津軽寧親が造営。
- 現況
- 江戸時代の天守、3棟の櫓、5棟の城門が現存。堀・石垣・郭も城郭の構成をよく残しています。
STORY
城の歩み
- 主な城主
- 津軽為信、津軽信枚をはじめとする弘前藩津軽氏。現在の天守造営時は九代藩主・津軽寧親。
- 城の姿を変えた主な改修
- 寛永4年(1627年)に築城当初の五層天守が落雷で焼失。文化7年(1810年)に本丸南東隅へ現在の三重天守が造営されました。現在は本丸石垣の保存修理に伴い、天守を曳家して修理事業が進められています。
- 廃城・役目を終えた時期
- 明治維新・廃藩置県で藩政拠点としての役割を終えましたが、主要建造物の多くは残り、明治28年(1895年)に弘前公園として開園しました。
HISTORY
お城の歴史
- 本文
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弘前城は、津軽地方を統一した津軽為信が新たな政治拠点として計画した城です。慶長8年(1603年)ごろから高岡の地で城下の整備が進められ、為信の死後、二代藩主・津軽信枚が事業を引き継ぎました。慶長14年(1609年)に幕府の築城許可を得て、翌年から本格的に築城し、慶長16年(1611年)に五層天守を備えた高岡城が完成しました。
城は本丸、北の郭、二の丸、三の丸、四の丸、西の郭からなり、堀をめぐらせた大規模な平山城として整えられました。寛永5年(1628年)には地名が高岡から弘前へ改められ、城も弘前城と呼ばれるようになります。弘前城とその城下町は、その後の弘前藩政と津軽地方の都市形成の中心となりました。
築城当初、本丸南西隅にあったと伝わる五層天守は寛永4年(1627年)の落雷で焼失しました。その後、弘前城は長く天守を欠きます。文化7年(1810年)、九代藩主・津軽寧親が幕府から櫓造営の許可を得て、本丸南東隅に三重三階の建物を完成させました。これが現在の弘前城天守で、江戸時代後期の天守建築を伝える現存天守の一つです。
明治維新後も弘前城では多くの城郭建築が失われずに残り、明治28年(1895年)には弘前公園として一般に開放されました。現在も天守のほか、慶長16年(1611年)の築城当初に造営されたとされる二の丸辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓、二の丸南門・東門、三の丸追手門・東門、北の郭北門の計8棟が残っています。
天守、3棟の櫓、5棟の城門の合計9棟は国の重要文化財です。城跡自体も国指定史跡として保護されています。本丸石垣の修理に伴い天守は本丸内へ曳家されており、保存修理を進めながら城郭を次代へ継承する過程そのものを見ることができます。建物だけでなく堀、石垣、郭がまとまって残ることが、弘前城の大きな特徴です。
WHAT REMAINS
いま残る城の姿
- 今も残っているもの
- 文化7年(1810年)の天守、慶長16年(1611年)造営とされる二の丸3櫓と5城門、堀、石垣、郭。江戸期の城郭建築がまとまって残ります。
- 建物はいつのもの?
- 天守は文化7年(1810年)の現存建造物。二の丸辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓と5城門は慶長16年(1611年)の築城当初の造営とされています。
HERITAGE
文化財として残るもの
- 指定されているもの
- 弘前城跡は国指定史跡。天守、二の丸3櫓、二の丸南門・東門、三の丸追手門・東門、北の郭北門の合計9棟が国指定重要文化財です。
SOURCES
出典元
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弘前城と石垣修理の歴史
弘前市
最終確認日:2026年8月9日
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弘前公園
弘前市
最終確認日:2026年8月9日
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日本100名城®一覧
公益財団法人日本城郭協会
最終確認日:2026年8月9日
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画像:Feri88
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Wikimedia Commons
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/ 表示用にトリミング・リサイズしています
最終確認日:2026年8月9日