CASTLE / HISTORIC SITE
盛岡城
岩手県盛岡市の盛岡城は、南部信直が天正19年(1591年)に不来方への居城移転を決め、慶長2年(1597年)から南部利直を中心に築城が進められた城です。北上川と中津川の合流部に近い丘陵を利用し、本丸・二ノ丸・三ノ丸を花崗岩の石垣で囲みました。城郭建物は明治期にほぼ失われましたが、東北地方では特色ある大規模な石垣と曲輪が盛岡の市街地に残っています。
INFORMATION
基本情報
- 所在地
- 岩手県盛岡市
- 種別
- 城
- 推定築城年代
- 慶長2年(1597年)に築城開始と伝わり、江戸初期まで段階的に城郭と城下町が整備されました。
- 築城者
- 南部信直が居城移転を決定し、嫡子・南部利直を総奉行として築城を進めました。
- 現況
- 城郭建造物は明治期にほぼ失われましたが、本丸・二ノ丸・三ノ丸の曲輪と大規模な花崗岩石垣が現存しています。
STORY
城の歩み
- 主な城主
- 南部信直、南部利直以後の盛岡藩南部氏。
- 城の姿を変えた主な改修
- 不来方城の土の城を取り込みながら本丸・二ノ丸・三ノ丸を造成し、慶長期から江戸初期にかけて石垣化を段階的に進めました。現在確認できる石垣にも築城期と後世の修築の違いが残ります。
- 廃城・役目を終えた時期
- 明治5年(1872年)に陸軍省所管となり、明治7年(1874年)に城内建物のほとんどが取り壊されました。
HISTORY
お城の歴史
- 本文
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盛岡城の築城は、戦国期に北奥羽で勢力を伸ばした南部氏の本拠移転と結びついています。南部信直は天正18年(1590年)に豊臣秀吉から南部七郡の領有を認められ、翌天正19年(1591年)、浅野長政の助言も受けて三戸から不来方へ居城を移すことを決めました。場所は旧北上川と中津川の合流点に近い丘陵で、それ以前には福士氏の不来方城がありました。
慶長2年(1597年)、信直の嫡子・南部利直を総奉行として築城が始まったと伝えられ、慶長3年(1598年)の正式許可後に工事が本格化しました。不来方城の堀を埋めて平坦地を広げ、本丸・二ノ丸・三ノ丸などを新たな縄張で整備します。築城初期は土の城の要素を残していましたが、工事の進行と修築を重ねながら花崗岩の石垣を広げ、近世城郭へ姿を変えていきました。
城の建設と並行して城下町も整えられました。中津川の両岸には橋が架けられ、内丸、本町、紺屋町、肴町などへ町が広がります。城と城下は江戸時代を通じて盛岡藩の政治・経済の中心となり、現在の盛岡市中心部の都市構造へつながりました。石垣には築城初期の野面石を多く使った部分から、後世の修築による部分まで複数の時期が読み取れます。
明治維新後、盛岡城は明治5年(1872年)に陸軍省の所管となり、明治7年(1874年)には城内建物のほとんどが取り壊されました。一方、本丸・二ノ丸・三ノ丸などの曲輪と大規模な石垣は残されます。明治39年(1906年)には岩手公園として開園し、城跡は市民の公園として利用されるようになりました。
昭和12年(1937年)、盛岡城跡は国の史跡に指定されました。現在は盛岡城跡公園として、建物を復元して見せる城とは異なり、石垣そのものが城の時代の重なりを伝えています。盛岡市は石垣の解体修理と発掘調査を継続しており、花崗岩の積み方や内部に埋もれた古い石垣から、築城と改修の過程を読み解くことができます。
WHAT REMAINS
いま残る城の姿
- 今も残っているもの
- 本丸・二ノ丸・三ノ丸などの曲輪、花崗岩を用いた大規模な石垣、堀・土塁など。建物よりも石垣と地形が城郭の姿を伝えています。
- 建物はいつのもの?
- 城郭建造物は明治7年(1874年)にほぼ撤去され、江戸期の主要建物は現存しません。現在の見どころの中心は築城・修築各期の石垣です。
HERITAGE
文化財として残るもの
- 指定されているもの
- 盛岡城跡は昭和12年(1937年)4月17日に国指定史跡となりました。
SOURCES
出典元
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盛岡城跡 盛岡城の歴史
盛岡市
最終確認日:2026年8月9日
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盛岡城跡 城の変遷
盛岡市
最終確認日:2026年8月9日
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日本100名城®一覧
公益財団法人日本城郭協会
最終確認日:2026年8月9日
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画像:Daderot
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Wikimedia Commons
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CC0 1.0
/ 表示用にトリミング・リサイズしています
最終確認日:2026年8月9日